明 治 二 年 八 月 、 矢 代 家 の 婿 養 子 に 迎 え ら れ た 美 太
よ し ふ と
は 同 年 十 月 十 四 日 に 家 督 を 相 続 し 、 矢 代 家 七 代 目 当 主 に な っ て い ま す 。 こ こ で 、 矢 代 家 の 住 宅 に つ い て 述 べ て お き ま す 。 ﹁
毒
江 町 実 測 図 ﹂ ︵
毒
江 市 資 料 館 蔵 ︶ に よ れ ば 矢 代 家 は ﹁ 上 小 路 二 五 ︱ ハ ﹂ に 位 置 し て い ま し た 。 そ の 場 所 を 確 認 し て お く と 、 現 在 の 屋 形 町 二 の と こ ろ で 、 面 積 は 二 五 歩 余 で し た ︵ 写 真 ︶ 。 と こ ろ で 、 明 治 三 年 七 月 、 貢 進 生
こ う し ん せ い
制 度 が 実 施 さ れ て い ま す 。 貢 進 生 と
矢
や代
し ろ操
みさ お(二)
い う の は 、 明 治 新 政 府 が 近 代 国 家 を 築 い て い く 新 し い 担 い 手 を 養 成 す る た め 、 全 国 各 藩 か ら 優 秀 な 人 材 を 選 抜 し 、 教 育 す る と い う 制 度 で す 。 選 抜 の 方 法 は 、 十 五 万 石 の 大 藩 は 三 人 、 五 万 石 以 上 の 中 藩 は 二 人 、 五 万 石 以 下 の 小 藩 は 一 人 と 規 定 し 、 と く に 洋 学 を 勉 強 し て い る 者 が 優 先 さ れ ま し た 。 学 問 を 修 め る 場 所 は 、 大 学 南 校
な ん こ う
、 つ ま り 後 の 東 京 大 学 で す 。 そ の 貢 進 生 と し て
毒
江 藩 か ら は 美 太 が 唯 一 人 選 抜 さ れ て い ま す 。 こ う し て 、 貢 進 生 と し て 幅 広 い 知 識 を 身 に つ け た 美 太 は 、 旧 鳥 取 藩 出 身 の 岸 本 辰 雄 、 旧 天 童 藩 ︵ 山 形 県 ︶ 出 身 の 宮 城 浩 蔵 と 出 会 い 、 明 治 十 四 年 一 月 に 近 代 法 学 の パ イ オ ニ ア と 称 さ れ た 明 治 法 律 学 校 ︵ 後 の 明 治 大 学 ︶ を 開 校 し て い ま す 。 な お 、 美 太 は 同 じ
毒
江 藩 士 の 中 村 雄 治 の 娘 ︵ ま さ 子 ︶ と 結 婚 し て い ま す 。 婚 姻 の 時 期 は わ か っ て い ま せ ん が 、 こ の 時 に ﹁ 操 ﹂ と 名 乗 っ て い る よ う で す 。
姉
妹
編
さ
ば
え
人
物
伝
②
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